前回、「7カ国語をモノにした人の勉強法 橋本陽介」を
ご紹介した。
今回、ご紹介する
「マルチリンガルの外国語学習法 石井啓一郎」は
橋本氏よりも、読書に力を入れておられる。
原典を読んで、日本に紹介したり、ご自分で楽しんでおられる。
それゆえ、
橋本氏のように日常的な会話をする事よりは、
その国の言葉で「本を読めること」に力点を
置いておられると感じた。
各言語間の共通と思われる語彙の細かな差異にも
十分注意するようにと示唆される。
石井氏の学究肌の言語に対する厳しい姿勢は
我輩には到底及ぶところではないが、
言語オタクとして、
石井氏の意見は傾聴しなければならない。
以下、少し、この本からの抜粋を引用する。
というのは、時々インターネットを徒然(つれづれ)に見ていると、それこそ「自分は○○ヵ国語をマスターした」「多言語なんてコツがあって、それをつかめば簡単」式のブログやHPを開設している人を時折見かけるからである。正直、この種のブログやHPを偶然見て、何かすごく示唆に富む言葉や教えに触れて眼からウロコ、というような体験をしたり、「非常に参考になりました。恐れ入りました」などと感服することはまずない。
この種のブログとかHPに多く見るのは、「多言語習得なんて容易であり、それには要領がある」という、失礼ながら中身のない見栄坊な知識のひけらかしが多い。
大多数はつまるところ「印欧語族」のような大きすぎる概念的枠組みのなかで、多言語を初級文法と基本語彙の範囲に限り、無理に同系統化して、自称既習言語の数だけをひけらかすというものだ。およそ深堀した知見を各語について体得しているとは思えない。「仏作って魂入れず」のようで、いかにも各語と実際に格闘した経緯などなさそうな皮相な言説が多い。
ついでに言うと、この種のブログやHPというのは、その結びにくるのがせいぜい「ツアーなどではなしに、自分で現地の人と触れ合う旅をしている」などという、闇雲な自慢で終わることが多い。
(同書154ページ)
上記指摘は、我輩も、重々気をつけなければならぬ。
我輩は、なんとか、セルビア語で、基本的な会話は出来るし、
それなりにセルビア語のテキストも読める。
しかし、セルビア語で書かれた古典など読んだこともないし、
どのようなものがあるのかさえ、知らない。
それでは、とても、
「セルビア語ができます」
などとは言えない。
「日本語できます」と言っている外人さんが
百人一首を知らないようなものであろう。
著者の石井啓一郎氏は1963年生まれで、
我輩と同い年である。
さらに、お名前の中に「啓一」が入っていて、
我輩も「Keiichi」である。
それゆえ、こちらから勝手に、
石井氏に対して親近感がわくのだが、
言語に対する臨み方に
大きな差があり、
我輩からすれば、雲を見上げるようなものだ。
ちなみに、石井氏は、
どこかの大学教授というのではなく、
普通の会社員とのことである。
「英語もできないくせに、フランス語やドイツ語をやりたいなんて無謀だ」などと思う必要などないと私は思う。英語ができなくても、必要性や意欲があるなら、ロシア語だろうが、アラビア語だろうが、やってみれば良いと思う。あまり頭をカタくしなくてよいのではないか。
ただし、多言語習得という「遠回りな道筋」に好きこのんで手を広げて、それで「要領よく英語も覚えよう」などと思う人は、それなりの覚悟は決めて取り組んでいただきたい。
多言語習得ということは、「同じ『印欧語族』のうちであれば、一言語を押さえるとあとは結構楽だろう」と思う向きがあるが、これは嘘とは言わないまでも、それぞれの言語の「質」にこだわるだけの良心があるなら、やはり乱暴である。外国人として勉強する以上は、多言語習得というのは、天才でもない限りは、所詮「1+1」を積み重ねる、気長で愚直な作業でしかない。
言語は結局、到達度を問わずに数だけ並べてみても何の意味も価値もないと、私は思う。外国語力を一定の達成レベルまでもっていくには、自分なりにその言語の発想法や文化まで肉迫するという努力をどこまでしたか、それをどこまで深く突き詰める努力をしたか、という姿勢と良心を問われることだと思う。
習得言語数を水増しするために、文法書を読破した数だけ並べるような、皮相なノウハウを語っても無意味だし不毛だ。英語も含めた「ヨーロッパ語」あるいは「印欧語族」に包含される諸言語を、「同族言語のなかでなら多言語も要領よく習得ができる」などという甘い思い込みは一応捨てる覚悟をしていただきたいと思う。
そして、あえて遠回りなアプローチを試みたい方は、それ相応の量だけ、余計に汗をかくという覚悟は忘れないでおいていただきたい。
(同書227ページ)
では、この石井氏は、どれだけの言語を「マスター」しているのか?
もともと私は大学でスペイン語学科、スペイン古典文学を愛した学生だった。そんな頃から、独学も含めて、というより量的にはかなりの部分が独学で、スペイン(カスティーヤ)語、ポルトガル語、カタルーニャ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ルーマニア語、ペルシア語、トルコ語、正則アラビア語、聖書ヘブライ語、ドイツ語、アゼルバイジャン語、パシュート語、ウルドゥー語、ヒンディー語、ウイグル語、ウズベク語、ロシア語、そして英語・・・・・、確かに私はこういう言葉に何らかの形でかかわってきた。
でもこうやって数だけ並べてみても自分でもあまり実感がない。それぞれは、それぞれに必要があって、それに応じて文法書を開き、辞書を手繰ったりしたのは事実である。だが、それでも自分はほんとうのところ、いくつの言語を「マスター」しているのかと思うと、意外に心許ない。
少なくとも「読む」「書く」「話す」の三要素を一応バランスのとれた状態でこなせるとなれば、スペイン(カスティーヤ)、ポルトガル、カタルーニャ、フランス、イタリア、ペルシア、トルコ、英、母語である日本語である。それに既に死語であるラテン語を加えたら、数は十になる。
だからといって、この日本語を含めた十の言語ですら、私は自分が全てを熟知し、知り尽くしたというわけにはいかない。それぞれの言語の辞書は、だいぶ使い込んでぼろぼろになっているのだが、それでも老い、草臥(くたび)れた友のような辞書との付き合いが終わることはない。
私自身、いったい何をもって外国語をマスターしたと評定できるのか? と自問するとその確たる答えはない。だから、じぶんが「学んだ」言語の数だけを並べてみても、どこか気恥ずかしいだけなのである。
(同書2ページ)
石井氏は、謙遜されてるが、これを天才と言わずして、何と言おう。
正直なところ、セルビア語の辞書を入手して、
セルビア語を読み込んでやろうというほどの根性は、
今の我輩にはない。
せいぜい、もう少し流暢(りゅうちょう)に
セルビア語で会話がしたいという程度である。
その言語で少しばかり日常会話ができるからと言って
決して慢心しないようにという戒めをもらった。
どのような分野でも、上を見ればキリがないし、
今、その人以上の人はいないと言われていても、
過去には天才がいるだろうし、
これから先、いつかその人を超える天才が現れるのは
間違いない。
天才ですら慢心できないのであるから、
我輩のような、どちらかと言うと、バカな人間は
ひたすら努力する以外に進歩する道はない。
それでは、また。
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