父の背中

信念
父さんの背中
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私の父は80歳になる。
小学校の先生で、最後は校長先生も務めた。
私の母は、高校の数学の先生だった。
父も母も、私たち男ばかりの三兄弟にとても厳しかった。
風邪などひけば、自己管理の甘さを叱られた。

4年ほど前、母が病気で他界した。
母を懸命に看病していた父は、それ以来、どんどん元気がなくなっていった。
とうとう、うつ病と診断され、一人暮らしは困難とされ、
今年の1月から施設に入っている。
父は長らく学校の先生だったから、年金は、私から見れば十分な額をもらっている。
自宅もある。
それなりの貯えもある。
もし、父が何かしたいと思えば、おそらく何でもできると思う。
ゴルフ三昧でも、スカイダイビングに挑戦でも、客船でヨーロッパ旅行でも。
実際、父は、母が元気な時は、乗馬を習っていて、
モンゴルまで行って、昼間は馬を走らせ、夜はキャンプするというツアーに参加している。
ところが、母が亡くなってからというもの、どんどん元気がなくなり、とうとう、うつ病にまでなってしまった...。
経済的な余裕だけでは幸せになれないと言うことを、父は私に教えてくれた。
むしろ、働かねば食っていけない、子供らを食わせていけない、というような
厳しい状況の方が、生きる活力が出るのかも知れない。

母は、退職してからというもの、社交ダンスに夢中だった。
旅行も好きだったが、父とは趣味が異なり、
ヨーロッパを走るオリエント急行に乗ったりしてた。
その母も、最期は「生きたい、生きたい」と叫びながら、
亡くなった。
母には、私は徹底的に反抗してしまった。
今から思えば、母の厳しさは、母なりの愛情だったことが分かるのだが、
青いガキの頃はそれが分からなかった。
今となっては、もっと母の期待に応えたかったと心から思う。
母の最期には、本当にギリギリ間に合った(と思う)。
すでに母の意識はなかったが、母に
「生んで育ててくれてありがとう」
と言えた。
母には聞こえていたと思う。

一番下の弟が、父の持つ家を継ぎ、二世帯住めるよう建て替える事になった。
施設から外泊を許可された父と共に、家を片付けていると、両親の若いころの写真が出てきた。
母は美しい人だった。
母の幼いころの写真も出てきた。
何と、私の小さいころに似ていることか!
両親の小さい頃の成績表も出てきた。
母が小さいころから成績優秀なのは知っていた。
驚いたことに、父も成績優秀で、何度も表彰されていた。
私には出来過ぎた両親だった。
長男の私は誠にふがいないが、弟たちは頑張っている。
すぐ下の弟は、自分の店(料理屋)を持ち、さらには、仕入れまで見据えた会社を経営している。
一番下の弟は、サラリーマンだが、父の家を継いで、建て替えるほどの馬力がある。

母の最期を見、そして父の今を見るにつけ、
幸せとは何かと考えてしまう。
今を積極的に強くたくましく生きるだけでは足りない。
明日目が覚めなくても悔いのないように生きることが大切だと思う。
そして明日目が覚めようと覚めまいと、そんなことは何も気にしないで、今を
強くたくましく生きることに尽きる。

父も少しずつ元気を取り戻しつつある。

それにしても、
「総領の甚六」
とは、よく言ったものよ(笑)。

「総領」とは、最初に生まれた子。一般に長男をさす。
「甚六」とは、お人よし、愚か者、ろくでなしの意。
親にとって初めてできた子は特にかわいがり、甘やかすものだが、次子のときには育児にも慣れてそれほど手を掛けなくなる。
そのため長男、長女はおっとりした性格になりがちであり、弟や妹たちはしっかりしていることが多いということ。
故事ことわざ辞典

読んでくださり、ありがとうございます。
みなさんにもイイ事がイッパイありますように!
\(^∇^)/シャ~ッ(祈)!♪
(祈りの力は実はスゴイ!)

肉体は滅びても、魂は永遠の存在。
我輩、あの世の存在を信じておるので、死ぬことは怖くない。
野垂れ死にも、また一興。
天国は良いところだろうし、地獄に行くことになっても、まぁ、仕方ないし、何とかなるだろう。
問題は、何故、今のこの世に生まれてきたのか?
おそらく、何か、この世で、我輩が為さねばならぬ宿題があるはず。
その宿題をきちんとやり遂げたい。
その宿題をやり終えた時、あの世からのお迎えが来るはず。

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