何のために生きるのか

信念
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3年前に母が亡くなってから、父は一人暮らしになった。
父は小学校の先生で、最後は校長先生も務めた。
父の勤務歴の中で、孤児院の先生も勤めている。
おそらく、父は、子供たちに、
「強く生きろ。寂しいなどと言うな。何者かになれ。何かを成せ。」
と諭していたように思う。
その父が、母が亡くなってからと言うもの、どんどん元気がなくなった。
近くの心療内科で、うつ病と診断された。
昨年の年末に、父を見舞いに来た、父の弟、つまり私の叔父が、父の様子に驚き、
大きな病院に入院させた。
その病院の「入院計画書」には、病名として、
腰痛、認知能力の低下
と記されていた。
つまり、身体的には重篤な病気はなく、精神的にも、
認知能力の低下は認められるものの、うつ病と言うほどの事ではなかった。
結局、父はその病院に2か月ほど入院し、退院しても一人暮らしは無理という事で、市が経営する軽費老人ホームに入ることになった。
「軽費」とは言っても、その金額は、本人の収入によって変わる。
私の父は、最高額の費用となった。月に15万円を超える費用である。
父は、公立小学校の校長先生を勤めて退職したから、もらえる年金の額が多いのである。
父には、父が建てた家がある。貯えも少々ある。
収入(年金)も問題ない。
やりたいことがあれば、何でもできるのに…。
今、父は、「何もやる気が起きない」と言って、施設で暮らしている。

父も、母も、現役の頃は、大いに人生を楽しんでいたと思う。
母は社交ダンスと旅行が好きだった。
ヨーロッパを走るオリエンタル急行にも乗ったし、エジプトのピラミッドも見ている。
父は乗馬やゴルフを楽しんだ。
モンゴルに行き、1週間、日中は馬に乗って草原を駆け、夜はキャンプするというツァーに参加した。
「最近の若い人はすぐに腹をこわす。このツァーで腹をこわさなかったのは、ワシだけだ。」と言っていた。

その父母の最期や今を見ていると、
「何のために生きるのか、生きているのか」
と考えさせられる。
ある人は、
「生きる意味? それは、今この瞬間を十分に生きることだ、楽しむことだ。」
と言う。
しかし、かつて、私の父母は、その時々の瞬間を十分に生き、楽しんでいたはずなのに、
母はまだ生きたかったのに死に、父は一人暮らしが困難なほど気力が減退している。
「今この瞬間を十分に生き、楽しむ」だけでは、足りないのだろう。
私は、
「今この瞬間を十分に生き、楽しみ、」
そして、さらに、
「次の瞬間死んでも悔いのない覚悟」を持ちたい。

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