怖い夢を見た時。不安に襲われる時。

God Garuda 信念
ガルーダ神像
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夕べ、怖い夢を見た。
実は、どんな夢を見たのか覚えていないのだが、
とても怖かったことだけを覚えている。
けれど、起きた時には、何も怖くなくなっていた。

怖い夢を見た時、
亡くなった母親が土産に買ってきた、
神様の像が、頭に浮かんできた。

God

母がどこで買ってきたのか分からないが
母は人形が好きで、買い集めていた。
バリ・ヒンドゥー教のガルーダ像であろうか。

この像は、母親の写真と共に、寝室に飾ってある。
もしかしたら、この神像が我輩を守ってくれたのかも知れぬ。
はっきりとは覚えていないのだが、
怖い夢を見ていた時、
母親に助けを求めていたと思う。
その母への祈りが、母に伝わり、
母がこの神様にお願いして、
我輩を守ってくれたように思う。

内容が全く思い出せない怖い夢を見たり、
あるいは、
根拠のない漠然とした不安に襲われるとき、
それは、心にできた隙(すき)を狙って
何かがあなたに憑依(ひょうい)しようとしているときかも知れない。
憑依(ひょうい)されるのを防ぐには、
心を強く持たねばならない。
常日頃から、心を絶対的に強く持たねばならない。
それには、自分で自分をやましいと思うようなことをしてはならない。

それでも、時には、失敗もあるだろう。
そんな時は、自分を許しちゃえ。
自分を許すだけだと、何となく不公平だから、
今まで自分に何か嫌なことをしてきた人も全部
許しちゃえ。

そして、天国にいるご先祖様や神様に普段から
感謝すること。
普段から感謝してくれる者を嫌うご先祖様や神様は居るまい。

まとめると、こうなる。

1.内容が全く思い出せない怖い夢を見たり、
根拠のない漠然とした不安に襲われた時は、
心にできた隙(すき)を狙って
何者かがあなたに憑依(ひょうい)しようとしている時かもしれない。

2.
憑依されないようにするには、
(1)普段から心を絶対的積極的に強く持っておくこと。
自分で自分をやましいと思うようなことをしないこと。
(2)時には失敗もあるけれど、
自分も他人も全部許しちゃえ。
(3)ご先祖様や神様はいつもあなたを見守ってくれている。
ありがとうといつも思っておこう。
なんだか、不合理な、非科学的な事のように思えるけど、
全く内容の思い出せない怖い夢を見たり、
根拠なく強い不安に襲われたりすることだって、
ワケが分からない。
心を絶対的積極的に強く持って、
何もかも許してしまって、
お天道様(ご先祖様とか、神様とか)はいつもあなたを見守ってくれている
(逆に言えば、誰も見てないと思っても、お天道様は見てるよ)
と思えば、
何も怖いものはない。我輩が好きな話の一つに、
中村天風先生と天風先生の師であるカリアッパ師との次のような対話がある。

私がインドへ行って三日目、
山に行く道すがら先生からこういう質問が出た。

「野原を歩いているときに、後ろをヒョイッと見たら虎が追いかけてきた。
そこで、たまらぬと逃げ出して、どこか安全なところはないかいなと、
はるか向こうを見ると、大きな松の木が天にそびえている。
これだっていうんで松の木に登って、チョイと下を見ると、
その松の木の枝の出ている下は底知れない谷だ。

ここなら虎も上がってこないわ、
ここにしばらくいようと思っているときに、
ヒョイと気がついて頭の上を見たら、
頭の上から大きな蛇がお前を飲もうとして
紅蓮の下をペロッペロッと出して近寄ってきた。
上に大きな蛇、下に虎。

そこで、これは困ったというんで、どこかに逃げるところはないかと、
ヒョイッと足元を見ると、谷底へ蔦葛(つたかずら)が下がっていた。
これだこれだ、この蔦葛にひとつぶら下がっていれば、
蛇も虎もどうすることもできないっていうんで、
蔦葛にぶら下がった。

いいか。そうしたば、やれ安心と思ったのもつかの間、
手元に何か怪しき響きを感じてきたので、
ヒョイと上を向いたら、何と貴様、そのつかまっている蔦葛の根を、
リスめが来て、ボリボリ食いおった。
どうする?」

こういう質問なの。

そのままあなた方にも言う。どうする?

そのとき私はね、あなた方と違って、何べんか、
もう駄目だという生死のなかをくぐり抜けた後の、
いわゆる生死体験の者でありますから、
あなた方ほどあわてませんでした。
私、にっこり笑ったよ、その時に。
どうせ、むこうの満足するほどの返事は
できないかもしれないけども、私としてはこう考えた。

何もあわてることはないじゃないか。
切れるまでは生きているんだから、切れて落っこちてから
後のことは、落っこちてから後に考えればいいと思ってね。

「落っこちるまでは生きておりますから、そのまま安住します。」
と言ったら、
「偉いっ、それなら先ざきの見込みがあるぞ。
それが人間の世のほんとうのありさまじゃ」

これが、人間の世のありさまなんです。
気づかないために安心しているんではなく、
気付いたときでも安心できるようでないと、
本物じゃないわけだね。
ところが、あなた方、気づかざる場合には知らぬことで、
我が心を煩わさないから何も考えないけれども、
わかったら大変だ、ねえ。

わかったら大変じゃいけないんですよ。
わかっても、我れ関せずの心になり得れば、
人間の世界に何の恐れも感じない、
実に安心した状態が続いてくる。

中村天風著「成功の実現」より

(どの本に書いてあったのか思い出せなかったので、
こちらのブログに助けて頂きました↓)

中村天風とカリアッパ師-『成功の実現』絶対絶命の時どうする?- - 感動しながら生きてますか?
これは、天風先生がインドで修行中、カリアッパ師との会話です。昨日、未歩さんのブログ「つぶやき」で、中村天風先生の記事を紹介していただきました。(未歩さん、サンキューです!)その記事にも紹介した天風先生とカリアッパ師の問答のやりとりをもっとく...

「落っこちるまでは生きておりますから、そのまま安住します。」
スゴイなぁ~。
我輩もこの境地にたどり着こうと思います。

ちなみに、中村天風先生は
「人生一度だけだから、悔いの無いように生きよ」
と言っておられますが、
決して霊魂の存在を否定されてるわけではありません。

 けれど、病(やまい)になると、その考え方が、同じ感覚でも非常に自分の心持ちでもって消極的なっちまうだろう。そうすると、パーッと宇宙エネルギーを受け入れる、口がふさがっちまう。

この口がふさがっちゃたんじゃ、肉体のもっている力というのはたかがしれているから、すぐにくたびれちまう。万物(ばんぶつ)の霊長(れいちょう)たる人間であろうと、肉体のもってる生きる力には制限がある。心が無限大だというのは、宇宙エネルギーに通じてるからなんだ。だから、どこまでも積極的でいけというのは、これでわかったろ。どこまでもプッシュでいけというのが。

これがわからなかった。明けても暮れても、この体が自分だと思いこんでる、哀(あわ)れはかなき頃は、ちょいと脈が速くなっても、ちょいと熱がでても、そりゃもう天地がひっくり返るほど心配したもんだ。

だから、いずれにせよ、この厳粛(げんしゅく)なる事実から考えてみれば、自分というものの正体(しょうたい)は、形ある肉体でもなければ、観念で考えられる心でもなく、ぜんぜん見えない霊魂(れいこん)だと、こう考えるのが一番いい。

もっとも、それは「考えろ」と無理にはいいませんけれども、「考えなさい、そのほうが得だ」と私は言いたいな。

こうした理論を悟るまでは、死にゃしねえか、助かりゃしねえだろう、インドの土になるのか、とばかり明け暮れ思ってた。今度はもう死ぬなんてことは考えない。治ろう、生きようとも考えなきゃ、死ぬことも考えない。ただ、あなた方がきれいな景色を見てるときと同じような状態の心。つまり、無碍(むげ)にして自在なる得(う)。人間は虚心平気(きょしんへいき)、何事も考えないときが一番無事なんです。

とにかく、せっかく縁(えん)あってこの人生に生まれたならば、そりゃもう飽(あ)きることはなかろうけれども、飽(あ)きるほど生きてるほうが得だぜ。

そして、病(やまい)が生じようが、運命が悪くなろうが、本当に安心のできる人生に生きるということが当面の急なんだから。いくら長生きができても、本当に安心のできねえ人生に生きていたんじゃ、三文(さんもん)の値打ちもないだろ。

もっとも、本当に安心のできる人生に生きるというと、病(やまい)だ、煩悶(はんもん)だというのはそうでちゃこないけれども、仮にでたとしてだ、自分の正体(しょうたい)が、「気」だということがわかってるから、少しもその出来事に煩(わずら)わされるおそれがなくなるもの。見えもしない、感覚もないものは、何物にもダメージを受ける気遣(きづか)い
はねえじゃねえか。

だから、もしも考えられたら、そういう考え方にしてごらん、今日から。肉体は我が命の生きるための道具と。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなってんじゃない、と。自分の命を入れる入れ物に故障ができたんだけど、この故障は、ありがたいかな、自然に心がそれから離れさえすれば治るようにできてるんだってことを、ありがたく感謝しなきゃだめだぜ。これだよ、一番肝心なことは。

着物が破(やぶ)れたら、人間はそのほころびを繕(つくろ)わなきゃならない。屋根が漏(も)れりゃ、屋根屋を呼んできて、そこをふさがなきゃならない。

ところが、人間のほうは、ありがたいかな、自分がなにもしなくても、そこから心が離れさえすりゃいいんだよ。なぜかというと、離れると消極的な観念がなくなっちまうだろ。消極的観念がなくなると、肉体のもってる自然作用がその場所をもとの健全な状態にするために働きだすようにできてんだよ。これを普通の人は気がつかねえんだ。昔から言ってるじゃねえか。病(やまい)は忘れることによって治る。

だから、これも良く言ってるでしょうが。本当にもう人生に安心立命して生きられている人間というのは、真理を知ってるすぐれた人か、さもなきゃ、何にもわからねえ大ばかが一番。何にも知らないときには、何にも知らないんだから何にも心配ないわ。

要するに何にも知らないもんぐらい強いものはないんですよ。なまじ、くだらねえことを知ってるからこそ、神経がとんがらかっちまう。だから、この厳粛(げんしゅく)な事実から、常に、自分から好んで自分の命を粗末(そまつ)にするような、まぬけなことをしないようにしなきゃいかん。

いいかい。どんな場合があろうと、自分というものの正体(しょうたい)は、形ある肉体でもなければ、あの幽玄微妙(ゆうげんびみょう)な働きをおこなうこころでもない、目に見えない一つの気体、ぜんぜん感覚できないけれども、とにかく現在の自分を生かしてくれているこの「気」が自分なんだと、こう思わなきゃいけない。これが信念化されちまうと、生きる力が強くなるんだよ。

(中村天風著「心に成功の炎を」第三章 強い生き方 147ページ)
(この引用は、我輩が自分で本から探して、自分で打ち込みました。笑)

長々と引用させて頂きましたけど、
読めば読むほど元気がでます(本気)。
生きる力を強くさせることが大切だ
今更ながら再確認しました。

読んでくださり、ありがとうございます。

何かの参考になれば嬉しいです。

みなさんにもイイ事がイッパイありますように!
\(^∇^)/シャ~ッ(祈)!♪
(祈りの力は実はスゴイ!)

肉体は滅びても、魂は永遠の存在。
また、次の世へ進んで行く。

問題は、何故、今のこの世に生まれてきたのか?
おそらく、何か、この世で、我輩が為さねばならぬ宿題があるはず。
その宿題をきちんとやり遂げたい。
その宿題をやり終えた時、あの世からのお迎えが来るはず。

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